わたしは、千ヶ峰・自由学園において
「体験で学べる機会作りをしたい‼」
と考えているのですが、この考えはわたしの幼少期の体験によって多くのことを身に付けられた経験からきています。
まずは、わたしの生い立ちからお伝えしたいと思います。
宝塚市の老舗和菓子屋の長女として生まれ、厳格で愛情深い両親に育てられました。
父は、故松下幸之助氏の秘書課で働いていました。
父との関係があったので、わたしの本名の「恵子」は、故松下幸之助氏の命名で、「天からの惠みを受け、素直に育つように」という願いを込めて付けていただきました。
父の教育方針として「女性としての躾と感性教育を重んじたい」という思いがあり、それぞれの道のプロに教育をお願いし、与えるより「引き出す」ことを大切にして、育ててくれました。
幼少期には、母親が妹弟を出産する際にしばらく祖父母の家に預けられ、躾を受け、その後の心身や脳の発達にも良い影響を与えてもらいました。
2、3歳の頃から、祖父が陣頭指揮官をしていた和菓子屋の店頭に立って、躾を受けながら、お手伝いをしていました。
店頭では、お客さんが「ありがとう」と言ってくださり、商品とお金をお渡しして「ありがとうございます」とお辞儀をするやりとりをしていました。
これによって、「ありがとう」の感謝の響きが、幼少の頃のわたしにとって心地よいものとなり、最もよく使う言葉となりました。
この時、社員やパートさんにも可愛がられて、愛情をかけてもらったことを憶えています。
この時期に、多くの愛情ある人に関わってもらえたことは、幸運でした。
「この世界は善きものである」という安心の感覚が涵養されたからです。
幼稚園には祖父と電車に乗って通っていましたが、他の幼稚園生が走り回っているにも関わらず、座席に姿勢良く座っていることを求められました。
「お膝とお膝を合わせる!」「お口はつむって!」と、姿勢が崩れたらその度に躾けられました。
叔父が「常に見守っているよ」という在り方でいてくれたお陰で、自分で自分の身体の状態に氣がつき、対応できるようになりました。
自らを俯瞰する視点は、わたしの生涯の基礎となっています。
そして、小学校受験の際に塾で頭の使い方を学び、大阪教育大学附属池田小学校に入学しました。
小学校は、楽しく、キャンプなどの勉強以外の活動も充実していました。
キャンプでは「自然で遊ぶのって、こんなに楽しいことなんだ」と思え、自然に触れる体験によって感性を育んでいくことができました。
入学後は、習字・ピアノを習い始めます。
習字は、視覚的に美しい字をゆっくり丁寧に繰り返し書くことで、氣をこめる感覚を養いました。
ピアノは、美しい音、リズム、メロディを反復演奏する訓練で、意識しないで体が動くようになり、稽古三昧になると没入して無意識の領域に入り、自己調整を促す基礎訓練になりました。
お稽古を通じて、子どもの頃のわたしにとっては、さまざまなことが不思議に感じられたり、疑問を抱くきっかけになりました。
そうした好奇心が今に至るまでずっと続く探究心へと繋がっています。
このように幼少期から、周りの大人に愛され、創造の世界においては自由にさせてもらって、自分自身のあるがままでいることを許されていたことが、明朗快活な自己肯定感につながったと感謝しています。
だからこそ、記憶重視の学習に偏った教育カリキュラムが多い中で、教える側も共に体験して、一緒に体得し探求する中で引き出しあえる「共育」が重要だと思っています。
千ヶ峰・自由学園では、わたし自身も共に楽しく体験し、共に育ち、「生きる力」すなわち、健康で豊かな人間力と探究力を培っていただきけるよう誠心誠意子どもたちと向き合っていきたいと思っています。
大学院を卒業した26歳のわたしは、カルメンのミカエラ役で、念願のオペラ歌手としてデビューしました。
そして、イタリアのミラノ、スカラ座の近くへ音楽留学に行き、オペラを学びに行き、多くの事を学びました。
また、帰国する時には、そこで子どものように温かく迎え入れてくれたホームステイ先の方、留学校へのご恩を感じ、日本の子ども達に返したいと思うようになりました。
そして、帰国して日本を見た時に、
子ども達が学校や塾に合わず、創造力も活かせず、エネルギーがどんどん下がっている現状を目の当たりにしたのです。
学校や塾が悪いというよりも、それ以外の場が合っている子もいるのではないかと考えました。
そんな子達に
「夢いっぱいの舞台で、音楽の愉しさを体験させてあげたい‼お金があるないに関わらず感性を育てる教育を受けられるようにしたい。」
と思い、宝塚市長にミュージカルスクールの構想を語りに行きました。
市長には大変感動していただいて、市の教育委員会などから全面的応援をいただきながら、「ミュージカル・アカデミー・オブ・宝塚」を発足させました。
一期生では、後に女優になった「藤原紀香」や「相武紗季」、宝塚歌劇団の「音花ゆり」、新体操オリンピック選手の女王になった「村田由香里」などを指導して、感性・感覚が大切になる分野で活躍する人材を多方面で輩出してきました。
この時、わたしが理想の大人像を見つけた『サウンド・オブ・ミュージック』を子ども達と上演しました。そこで、100回以上マリア先生を演じる事で、自身の「マリア先生みたいになりたい」という夢も叶いました。
その中で、本当に必要だと感じる教育をして、子どもが笑顔で活躍していくことが本当に幸せでした。
「これからもっと盛り上げていきたい‼」そんな時に様々なショックな出来事がわたしを襲いました。
阪神淡路大震災で身近な人をなくし、家の倒産、心労によるパニック障害、離婚、母校の生徒の殺害事件の被害と立て続けにひどく悲しい事がありました。
そして、追い打ちをかけるかのように、わたしは癌になりました。
「どうしてこんな目に合うのだろう」と思うこともありました。
でも、わたしはあきらめず、闘うことを決意し、多くの方に応援していただきました。
その時に、自分の内から響く声や、言葉を大切に命ある全てのものに感謝できるようになり、「ありがとう」の想いを込めて声を発していくようになりました。
わたしは、「自分すら癒せない歌声でお客さんを癒すことはできない。」と思い、向き合っている内に、ガンの症状が和らぎ、最終的には回復したのです。
周りもわたし自身も驚きました。
その後は困難を乗り越えた経験を活かして、多くの人のお役に立つため、サウンドセラピーコンサートを全国で展開し、伊勢神宮・出雲大社式年遷宮をはじめ、全国の神社、仏閣で奉祝奉納演奏を行いました。
そして、「子どもの未来と地球の環境」をテーマに福島チャイルドサポートコンサートを全国開催するなど音楽を通して、教育を進めて、子どもが笑顔で生きていけるように会を開いてきました。
それから年月が経ち、世はパンデミックが起こると同時に世界は一変し、様々な問題が起こるようになりました。
日本経済が低迷し、お金に困った企業や人が海外に土地を売らざるを得ず、実は日本の食糧危機は迫ってきました。
また、景気、仕事、生活、人間関係の問題が絡み合う中で女性や、若者の自殺が増加するという悲しい現象が起きていきました。
これらは、インスタント化やオンライン化により、日本人が食文化や自然に触れる機会も少なくなり、
本来「日本人が大切にしてきた精神」も失われつつあることも原因の一つだと考えました。
わたしは「このままではまずい。日本が本来大切にしてきたことを自然の里山の中で実践して伝えていこう。」と思い、
2021年に兵庫県多可町で、癒しと再生を目的とした「あいか庵」を開きました。
そこから、あいか庵では、本物の自然に向き合う大切さを感じて、
本当の教育や、幸せを見つけるきっかけをセミナーなどを通してご提供し続けてきました。
するとありがたいことに、多くの大人に、
「こんな学びをして大人になりたかった!」
「なぜか涙が出てきました。」と仰っていただけるくらい、
皆さんが生きる本質を学び続けに来て下さり、元気になっていかれるのです。